母の死

ブログを書くのが、すごく久しぶりになってしまいました。


私の最愛の母が8月12日の4:44に亡くなりました。

それから、突然涙が出たり、寂しかったり、やる気がぜんぜん起きなかったり、、、

「仕事」はしなくちゃいけないと思いながらも、

与えられた事しかできず、

新しいことをに打ち込む熱意もなくなり、

ただただ、毎日過ぎていく・・・

そんな日々を過ごしていました。


母の死と向き合う事は、すごく辛く、

今、こうして文章にしているだけでも、苦しくなります。

このブログは、誰かに読んで欲しいのではなく、

自分の心の整理のためと思っています。


私が、一歩前へ行くためのに。


母は、難病でした。

2年前の5月に診断され、徐々に徐々に進行していきました。

私の母は、活発で、趣味も多く、友達も多く、出かけるのも好きで、仕事もでき、人望も熱く、

母自身も、「一番なりたくない病気だ」と、言っていたその病気にかかってしまいました。

診断された時は、足は動かなくなってきていたけど、元気だったし、よく喋っていたので、私も、母本人も、その病気であることを信じられずにいました。

それでも、徐々に動けなくなりました。

診断がついたあの日、母本人は「自分の寿命がそう長くはない」と思っていたのか、

その日から大掃除。いらないものを全て捨てていました。

最初は、受診の帰りは必ず外食に行けたのに、

しばらくしたら行けなくなり、

時々一緒に買い物に行けていたのに、行けなくなり、

車に乗れていたのに、乗れなくなり

歩けていたのに、歩けなくなり、車椅子での時間が増え

車椅子の時間より、ベッドで寝ている時間の方が長くなり、

それでも自分でご飯を食べて、最後までトイレも行っていました。


母は、一切の延命処置を拒否すると言い続けました。

「絶対に胃ろうは作りたくない」「絶対に人工呼吸器はつけたくない」「自分の寿命をそのまま受け止めたい」と。

家族としてはとても、複雑でした。

「延命処置は受けたくない」という

母の意思は強かったので、なるべく母の意向に添えるように・・・と思っていたものの、

いざ 痩せほそり、呼吸が苦しそうになってくると、家族もなかなか受け入れられません。

何度も何度も話し合い。

「少しでも長く生きてほしい」は私たちの想い

「自然のまま死にたい」は母の想い

喧嘩もしたし、何度も泣いたけど

最後は『母の想いに沿うことが、私たち家族のできる最大限のことであると』そう思うことができました。

それでも寂しくて寂しくて

「お母さんの意思は尊重するよ。でも、私はすごく寂しい。残される私のことはどうでもいいの?」と泣きながら言いました。

母は、それから数日後「お前になんて言ってあげたらいいのか、ずっと考えていた。お母さんは、延命治療は受けないけど、あなたのために長生きするから!長生きするからね!」と泣きながら抱きしめてくれました。

母は、その1週間後に自宅で倒れ、その数日後に亡くなりました。

母の意思を尊重できたこと。これは、私たちに「心残り」をなくしてくれました。

「何かをしてあげたい」っていう気持ちってすごく大事だけど、

「相手がどうして欲しいのか?」「それを叶えてあげること」の方が大事だなって教えてくれました。


亡くなる前に、母が私の息子に言っていました。

「ばあばのお母さんが亡くなった時にね、すごく沢山の流れ星を見たんだよ。ばあばが死んだ後、流れ星を見たら、それがばあばだからね!」

涙が出ました。息子は今も流れ星を見るのをすごく楽しみにしています。私も流れ星を楽しみにしています。


めばえ助産院

長野県松本市岡田松岡の自宅でオープンした地域密着型の助産院です

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